ナウシカ:共同体と伝統主義

宮崎駿氏の遺作になろうかと言われているジブリの最新作「君たちはどう生きるか」の放映が始まって数ヶ月が経ち、様々な考察が様々な媒体で行われている。そんな中でよく、もう嘗ての宮崎を見ることはできないという落胆の感想を耳にする。実際に、私の母は「宮崎駿は耄碌した。あのインコなんやねん。」とショートメールで檄文を送ってきた。このように多くの人が昔のジブリと比較しているが、嘗ての氏の作品は具体的にどういうものだったのか。

宮崎駿」ひいては「スタジオジブリ」を代表する作品といえば、風の谷のナウシカであろう。しかしナウシカが放映される以前は色々と事情が立て込み、決して良い環境とはいえなかった。宮崎駿は様々な理由で業界から完全に干されており、同映画作成の資金面や制作後の集客如何によってはアニメ業界から永久に足を洗う必要があるという過酷な状況下に置かれていた。しかし徳間書店による出資のおかげでなんとかアニメを完成にこぎつけられた結果、ナウシカは世間に受け入れられ、宮崎駿とその周りのスタッフはめでたくスタジオジブリを立ち上げることになった(そう考えるとスタジオジブリのロゴはトトロにはふさわしくないような気もする)。

 

ことほど左様に「宮崎駿」といえば風の谷のナウシカなのだ。源流と言ってもいい。

嘗ての宮崎駿を知るためにはこのナウシカについて改めて論ずる必要がある。

ナウシカで彼は何を伝えようとしていたのか、映画版も必要に応じて参考にするが漫画版をベースに考えてみたい。

 

 

劇中では核の汚染によって発生した腐海が世界を蝕み続け、人類は衰退を続けている。そのような状況下で大きく三つの勢力が人類の行く末を思案しながら互いに衝突をしている。まず、これら各勢力は古代、中世、近代に区分することができる。エフタルこと風の谷は古代、トルメキアが中世、ペジテが近代である。

 

一見するとトルメキアが近代のような感覚に陥るが、近代において呪術は発達しえない。近代化する際に人々は脱魔術化(魔法が解ける)が起こるからである。つまり、今までアニミズム(自然崇拝)的だったのが資本主義の導入から起きる科学の発達により中世に見られる伝統的支配が崩れ、今まで自明であったものが偉くもなんともなく、

科学を持つ我ら人間こそがより偉いのだと驕りたがぶるようになる。物事は科学的であるか非科学的であるかが重要視され後者は近代、もしくは近代化への過渡期では異端とされる。映画では描かれていないがトルメキアには脈々と続く伝統的支配があり、実際に呪術も残っているので中世の域を出ることはできない。

 

そして反対にペジテは工業都市として栄え、科学に傾倒した故に神の存在が薄れた近代的な生活を営んでいる。風の谷には伝承やおまじない等が残り呪術の要素があるが、ペジテは近代化しているのでそのような描写は一切見られない。また映画版では一瞬、王蟲によって瓦解したペジテの街が描写されるが無機質な建物が並び立っているだけで自然は一切存在していない。

 

風の谷は小さな共同体として科学とは意図的に距離を取り、昔から伝統的に続く慣習に従って生活している。映画版では序盤に風の谷を制圧しに来たクシャナが「腐海の毒に侵されながら、それでも腐海とともに生きるというのか?」と問うが、住民は「あんたは火を使う。そりゃあ、わしらもちょびっとは使うがの」「多すぎる火は、何も生みやせん。火は森を一日で灰にする。水と風は100年かけて森を育てるんじゃ」「わしらは水と風のほうがええ」と答えている。つまり、クシャナは自身が生まれ育った環境から中世の伝統的支配に疑義を持ち科学サイドであるペジテを利用して中世からの脱却を試みているが、風の谷は未だ伝承を信ずる古代であり保守的共同体なのである。

また、クシャナサンスクリット語で刹那を意味する。ヒンドゥー教では破壊と再生の神が存在し、人々は聖を身近に感じるためにこのような概念を新年などに当てはめた。新年には誰もが神聖な気持ちになり、新たな、真っ白な年を始めることができる。しかし、これらの概念が形骸化すると破壊と再生という永遠だけが取り残され人々は永遠なる昨日を生きることになるが「刹那」を切り取ることで永遠からの脱却を図ろうとする営みが解脱・クシャナである。

 

以上のように各勢力を古代、中世、近代を同じ時間軸に置くことで我々の生き方はどうあるべきか?これからどう生きていかなければならないのか?このままではどのような帰結をもたらすか?を問うたのが風の谷のナウシカなのである。ナウシカでは特に帰結について暗示する描写が多い。

 

氏はもののけ姫でも同様の構図を用いている。森の住人、朝廷、たたらばの三勢力が社会が複雑化する、つまり資本主義化する中で人が合理性を追求することは避けられず昨日まで自明だと思っていたことが自明でなくなる。その時に人はどう振る舞うことが善き生になるのか我々に問いかけたものの答えは宮崎駿にもわからず、終盤にてアシタカは「たたらばと森の間で生きる」と言い残す。

 

人々は近代化することで横のつながりを失う。例えば、伝統的支配の中で祭りの準備をする際には皆で準備をするのが慣わしであるが近代化するとこのような煩わしい仕事は金を払って外部に頼むようになる。

慣習的に動く→面倒臭いからお金でアウトソージング→横のつながりが金に変わる→金の切れ目が縁の切れ目、という流れが必然的に起こってしまう。

 

激動の時代を生きてきた宮崎はマルクス主義の崩壊はもちろん、宇沢弘文の「自動車の社会的費用」も知っていたはずだ。最近でいうとマイケルサンデルの「それをお金で買いますか」も同様の問題を我々に突きつけている。要は分断された個人は自己の合理化だけを推し進め、マクロ視点での合理化を度外視するという非合理的な行動を進んで行うようになる。便利の先にある結果を議論したのか?ということである。例えばゲーム理論においての最良は白状しないことだが皆自分の刑期を少なくするために白状する。または君が放牧を営んでいるとしよう。放牧ができる場所は限られているのでそのキャパシティ以上の家畜を持つと短期的には収益が増えるが将来的には他同業者と同時に沈んでしまう。だが、誰しもが個々の利益だけを考えどんどん牛や羊を増やし、そして皆職を失う羽目になる。

 

火の七日間によって高度に発達した文明は滅び、その代償として大地は長期間汚染されることになった。ここで人類は一度共通の悲劇を背負っている。共通の悲劇があればしばらくはその痛みから社会に平安が訪れる。しかし悲劇の共有は記憶から薄れると同時に効力も失っていく。人はなんとか伝承や神話の中に悲劇を残し子々孫々にも共有させようとするが限界が訪れる。

人々は 腐海によって土地が侵食されている(と思っている)ため腐海の樹々を焼き払おうとする。しかし風の谷のみが共同体自治として成立し、腐海との共存が可能になっている。ここに宮台真司が言うような方法が浮かび上がってくる。大婆様や伝承によるある種、保守的とも言える慣習に従うことが可能な人数(ダンバー指数)で共同体を作ることが今後重要になる、ということだ。

であるが故に慣習に従えない人間は必ず一定数出てくる。そのような人間はその共同体から出て、ペジテやトルメキアのような共同体を形成していき、また鉄の檻の中で合理化が繰り返されのである。

 

ナウシカは最終的に鉄の檻から人々を解放した。しかしその後にさらに困難が待ち受けている。無菌の世界で人々は生きられるのだろうか、という問いだ。この問いに気づけば間違いなく人々はナウシカを悪魔だと罵るだろう。しかしこれは真実である。真実を知るとき、人は傷つく。自明だと思っていたことが自明でなくなる時に人は必ず傷つく。それをビビって安穏と暮らすのは善き生なのだろうか。風の谷のナウシカはこれを我々に叩きつけている。